自分の上に圧し掛かるキョンの体重や匂い、汗ばんだ肌も切なげな吐息も……その何もかも
が愛しくてしかたがない。
 鍵の掛けられたこの部屋はあたし達だけの物、ここには誰の邪魔も入らない。
 薄暗い部屋の中で求め合う最中、
「ハルヒ……ハルヒ」
 大丈夫、あたしはここに居るから。ね?
 彷徨っていたキョンの手を掴んであげると、その手の震えはすぐに止まった。
 ほら、大丈夫でしょ。
 
 
 あたしと付き合い始めてから、キョンはまるで人が変わってしまったみたいに家に篭りがち
になってしまった。
 それまでの穏やかな性格を思い出せないくらいに荒んでしまって、一時期はSOS団のみん
なや家族まで近づけない程だったわ。
 あたしはそんな状態のキョンを放っておけなくて、2人で同棲したいとキョンの両親に頼ん
でみたの。まともに会話をできるのはあたしだけだったし、時期が時期だったからキョンがそ
うなってしまった責任は自分にあるのかもしれないって思ったから。
 状況がよくなるのであれば、そう条件をつけた上で疲れきった顔をしていたキョンの両親は
同棲を納得してくれたわ。

 
 それからすぐに、古泉君の紹介で入れた格安のマンションであたしとキョンは同棲を始めた。
 2人っきりの生活が始まって、キョンの様態は目に見えて回復していったわ。
 家族はもちろん、SOS団のみんなとも普通に話せるようになったし、気分がいい時は外へ
出かけたり、一緒に部屋で映画を見たりもできるようになったの。
 ただ……私以外の誰かが来た時は、決まってキョンは大人しかった。
 一見すれば、まるで以前と同じように戻った様に見えてしまう位に。
 そして今日も――
「キョン君、また部室で会いましょうね」
「新しいゲームを準備してお待ちしています」
「また、明日」
 別れを告げる三人に、
「……ほらキョン、みんながあんたの返事を待ってるわよ?」
 玄関口で頼りなさそうに笑うキョンは頭をかきながら、
「ああ、またな」
 そう恥ずかしそうに呟いた。
 ゆっくりと扉が閉められ、みんなの足音が遠ざかっていく。
 この後に起きる事がわかっていたあたしは、そこから動こうとはしなかった。
「ハルヒ」
 ただあたしの名前を呼びながら、キョンの手があたしの体を乱暴に掴む。
 抵抗すればキョンは悲しそうな顔をする事を知っていたあたしは、されるがまま床に押し倒
されていた。
 みんなが部屋に来た日は、キョンはいつもこうしてあたしを求めてきた。
 されるがままでいるあたしの顔を、キョンの切なそうな顔が見ている。
 キョンの顔は、あたしの言葉を待っていた。
「……いいよ。あたしには、何をしてもいいの」
 あたしのその言葉を引き金にして、キョンはまたあたしに溺れていった。
 
 
 まるで誰も居ないみたいに静かなSOS団の部室の中、私と長門さんは涼宮さんとキョン君
が戻ってくるのをずっと待っていました。
 誰も座って居ないキョン君と涼宮さんの席を見ていると、まるで2人とはもう会えない様な
気がして、私はなるべくその場所を見ない様にしています。
 大丈夫……涼宮さんがついてるんだから、きっと良くなるはず。
 2人が同棲を始めて数日が過ぎると、涼宮さんは私達に部屋に来ないように言ってきました。
 その方が、キョン君の回復が早いから……だそうです。
 涼宮さんはお医者さんじゃないけど、彼女が信じてればきっとそうなるんだと信じて、私達
はそれに従いました。
 ――それから電話、メールと次々と連絡手段が禁止されていって……キョン君の情報が全て
途絶えてしまった頃、古泉君は部室に来なくなりました。
 ……きっと何か忙しいんですよね。
 放課後、長門さんと2人の部室は静かだったけど、今の私にはそれでよかったんです。
「……」
 口を開いたら、不安な言葉しか出てこなかっただろうから。
 人が少なくなって、殆ど汚れなくなった部室を掃除する事が私の今の日課です。
 いつかみんなが戻ってきて、
『みくるちゃん久しぶり! あ、部室が綺麗だなんて流石みくるちゃんね! 団員の鏡よ!』
『ったく、お前もたまには手伝ってやれよ。……ご心配掛けました、朝比奈さん』
『これはこれは、久しぶりに勢ぞろいですね』
 きっと……みんな喜んでくれるますよね?
 そう信じなければ、私は自分が壊れてしまいそうでした。
 雑巾を絞っていたはずの私の手に、何故か上から冷たい雫がいくつも落ちてくる。
 お、おかしいなぁ……なんでだろう?
 その水滴を拭わないまま、あたしは雑巾掛けに戻りました。
 
 
 プルルルル――プルルルル――プルルルル――ピ
「もしもし」
 七日振りに聞いたその声は、わざと抑えた様な声だった。
「お、お久しぶりです、涼宮さん」
「何。みくるちゃん、どうかしたの?」
 どうしたんだろう……涼宮さん、怒ってるみたい。
「えっと、キョン君の様態はどうかな……って」
「キョンは大丈夫。今は元気にしてるし、その内に学校にも行けると思うわ。みんなにもそう
伝えておいて」
 あ、あの!
「何?」
 涼宮さんの声は、早く電話を切りたそうだった。
「あの。涼宮さんは休まなくて大丈夫ですか? 一人でキョン君のお世話は大変だろうし」
「……ありがとう。でもあたしは全然大丈夫だから心配しないで」
 今度の言葉は少しだけ優しくて、私はその言葉を信じたかったんです。
 はい。それじゃあ。
 彼女に電話を切られてしまうのが怖くて、私は自分で電話を切った。
 
 
 今の俺にはタバコや酒を止められない奴の気持ちがよく分かる。
 それはもう自分の体の一部みたいな物で、それが無いって事は自分が欠けているのと同義な
んだよ。
 これを依存症と言うのならば……今の俺はまさしくハルヒ依存症だな、正直あいつの居ない
生活なんて考えただけでおかしくなりそうだ。
 俺は自分の隣で寝ているハルヒの体を、起こしてしまわない様にそっと抱きしめた。
 ハルヒの傍に居る事で感じる、この不思議な程の安堵感はいったいなんなんだろう?
 これが愛って奴だとしたら、まさしく世界でもなんでも救えそうな気がするぜ。
 ――時折、俺は今の生活を不安に思うことがある。
 学校にも行かず、家族やみんなとも会わないでずっとハルヒと部屋に篭っていていいのかっ
てな。
 しかし、いくら今まで通りに生活しようと思っても、何故か体はそれを否定するのだった。
 これは精神病か何かなのかわからんが……ハルヒによれば、人間誰しもそんな状態になる事
はあるんだそうだ。
「あたしも、以前そんな状態になってたからわかるのよ。だからキョンは何も心配しなくてい
いの」
 医者でも専門科でもないあいつの言葉は、俺にとってまるで魔法だ。
 その言葉を聞けば、憂鬱な思いも未来への不安も何もかもが色あせて、俺にはハルヒしか見
えなくなる。
「……眠れないの?」
 ん、ああ悪い。起こしちまったか。
「いいの。あたしも、まだ起きてたかったから」
 シーツの下で、ハルヒの腕が俺の肌の上を優しく撫でる。
 その瞬間、俺の思考はいつもの様に急停止し、俺の体は迷う事無くハルヒを求めていった。
 
 
 お店の自動ドアが開くと、
「どうも、呼び出してしまって申し訳ありません」
 わたしの姿を見つけて、奥の席に居た古泉君が立ち上がりました。
「遅くなっちゃってごめんなさい」
「いえ僕も今来た所ですから」
 すっかり氷が解けたアイスコーヒーを前に、古泉君はそんな気の使い方をしてくれます。
 ――その日、私は古泉君に呼ばれて駅前の喫茶店にきたんです。古泉君とお話しするのは本
当に久しぶりの事で、何かいい話かなって思ってたんですけど……。
「あ、あの。どこか体の調子が悪いんですか?」
 そう聞かずにはいられない程、久しぶりに見た古泉君の表情は暗いものでした。
「いえ、どうぞお気遣いなく。最近はバイトの方もご無沙汰ですからね」
 彼が言う通り、キョン君達が同棲を始めてからというもの世界はとても安定しています。
 小規模な閉鎖空間すら発生しませんし、時空振も一度も観測されていません。
「さて……今日、貴女を呼んだ理由なんですが……」
 私から視線を逸らしながら、古泉君は言葉を選んでいるみたい。
 ……なんだろう、何か怖い気がする。
 やがて意を決したように、彼は口を開きました。
「正直、僕は貴女に事実を伝えるべきではないと思っています。ですがこのまま、貴女をあの
部室に行かせ続ける事は……どうしても耐えられないんです。これまで、一緒に過ごしてきた
仲間として」
「え……? それって、どういう……」
「結論から言います。涼宮さんと彼は、もう二度と学校に来る事も部室に来る事もありません」
 彼の言葉は、推測や可能性とか……そんな不確定な言い方ではありませんでした。
「事の始まりは……言うなれば僕なのでしょう。御2人の関係を進展させる事を望んでいたの
は、あのメンバーの中では僕だけのようでしたからね。2人はお互いを意識しあう様に仕向け、
結果恋人同士になってもらう。その後も2人の関係が上手く行くようにサポートすれば世界は
安泰、そう考えていたんです」
 古泉君の口調は、まるで罪の告白の様に重いものでした。
「しかし、涼宮さんは彼と恋人同士になった事でそれまでになかった感情を持つようになって
しまった。手に入れた物を失いたくない、今までよりもより強い絆が欲しい。いわゆる独占欲
と呼ばれる物です。涼宮さんは自分の独占欲を満たす為に、自分が彼を求める以上に、彼に自
分を求めて欲しかった。その強い思いはすぐに形になって現れました。……もう、おわかりで
すね」
「じゃあ……キョン君が急に変わってしまったのは……」
 私の言葉に古泉君は頷き、
「涼宮さんの力による物です」
 悲しそうにそう答えてくれました。
 
 
 それは俺にとって大事な物だったはずだった。
 携帯電話、アドレス帳、映画を撮った撮影データ、旅先での写真。
 みんなとの繋がりであるはずのそれらを、俺は順番に処分してしまった。
 そうする事でよりハルヒの傍に居られる気がして……俺には、お前しか居ないって事をハル
ヒに解って欲しかったんだよ。
 過去を1つ処分するたびにハルヒは困ったような顔をしていたが、その後でとても優しくし
てくれる。
 これじゃあまるで、ご褒美をねだる犬だな。
 ばらばらになった写真が散らばる部屋で、俺はハルヒの笑顔を待っている。
 最後まで残していたみんなとの写真もこれで終わり……か。
 残り一枚になった写真の中では、みんなが楽しそうに笑っている。朝比奈さん、長門、古泉、
鶴谷さん……みんな、さよならだ。
 俺は何の抵抗もなく、ハルヒ以外の部分に鋏を入れた。
 
 
 喫茶店からの帰り道の事は、よく覚えていません。
 古泉君は機関の方針に疑問を感じて抗議してくれていたそうですけど、安全な状態を確保で
きた以上、涼宮さんを刺激するような事はできないと言われたそうです。
 古泉君の目的は……そうですよね、世界崩壊の危機を救う事なんです。
 そう考えてみれば、今の状態は悪くなんかないんですよね。
「……それでも……それでも、本当にそれでいいんですか?」
 私が言いたい事は古泉君にも分かっているみたいで、結局無言のまま彼は帰っていってしま
いました。
 どうしよう……このままじゃ……このままじゃキョン君が……。
「朝比奈みくる」
「え?」
 暗い歩道を歩いていた時、急に背後から聞こえてきたのは、
「……」
 いつの間にかそこに立っていた、長門さんの声でした。
「あの、どうしたんですか?」
 まさか涼宮さんに何かが……。
 静かに長門さんの言葉を待っていた私に告げられたのは、
「貴女に、お別れを言いに来た」
 そんな一言でした。

 
 街灯で所々照らされた歩道に、私の走る音が響いていく。
 お願いです、今だけでいいですから早く足が動いてください!
 ――任務が終了した為、私に帰還命令が出ている。
 い、急がないと……急がないと!
 ――涼宮ハルヒに今後変化は訪れない。統合思念体はそう判断した。 
 2人の住んでいるマンションまで……もう少し。
 ――私としても、この結果は残念でしかない。
 涼宮さんやキョン君ならきっと止められる、そうですよね?
 ――貴方達と過ごした時間は、私という個体にとって最も大事な時間だった。
 エレベーターの降りてくる時間すら待ち遠しい。
 ――……さよなら。
 602号室……この部屋に。
「キョン君! キョン君! 長門さんが……長門さんが!」
 そう叫びながら私はドアを必死に叩いたけど、何故かドアを叩く音はしなくて、私の声を聞
いて部屋から出てくる人も現れませんでした。
 ど、どうして?
 考えてみると不思議なんです、町にはまだ人通りがあったのにこのマンションに入ってから
誰の姿も見ていません。
 それに、今は夜なのにマンションのどの部屋にも電気がついていないんです。
 ……いったい、ここで何が?
 この場所が静か過ぎる事に気がついて私が脅えていた時、その足音は聞こえてきました。
 階段の方から聞こえてくるその足音は、そのまま真っ直ぐ私が居る場所へと近づいてきてい
るみたいです。
 だ、誰だろう……。あ、もしかして……キョン君?
 そんな期待と共にその場で待っていた私が見たのは……。
 容易には信じられはしない。
 でも、間違えるはずもない。
 呆然と見守る私の前に現れたのは――
「こんばんわ。はじめまして……よね」


 「私」でした。


 今の私よりも背が高くて、顔つきも大人びているけれど……間違えるはずないんです。
 だって……それは自分なんだから。
 異時間同位体との接触、それは私達の様に時間を移動する存在にとって、最も犯してはなら
ない禁則事項のはず。
 それなのに、こうして未来の自分が目の前に居るのに、私の体は強制送還される事もなくこ
の場に存在し続けています。
「驚いてるわよね……。というよりも、私はここで驚いたんだから間違えるはずはない、か」
 寂しそうに笑う「私」は、そっと近づいてきて私の体を抱きしめてくれる。
 ……その暖かさも、匂いも。何もかもが一緒でした。
 彼女は私の体を抱きしめて、顔は見ないままで静かに話しはじめました。
「あの時、わたしが自分から聞いた言葉をそのまま伝えます。涼宮ハルヒと鍵である彼、2人
の居るこの部屋の時間を、私が凍結させました」
「……私……が。2人を閉じ込めたんですか?」
 キョン君と涼宮さんを?
「そう。未来の貴女である私がね。……貴女が少し前に聞いた古泉君達と同じ判断を、私達も
選んだの」
 古泉君達と同じって……。
「彼らは、2人をこの場所に閉じ込めておく事が最も安全であると判断した。でも、2人は人
間である以上いずれ時間の経過で不安要素が生まれてくる。だから機関は我々と取引きしたの」
 取引き?
「機関の出した条件は涼宮ハルヒに関わる全ての情報と記録を差し出す事。代わりにこちらに
望んだのは、この部屋の時間を凍結させる事」
「そんな! そんな事の為に2人を!」
「聞いて」
「離してください!」
 逃げ出そうともがく私の体を捕まえたまま、彼女は続ける。
「お願い、最後まで聞いて? 機関が条件として出した情報なんて、本当はどうでもよかった
のよ。私達が望んだのは未来の安定、ただそれだけ」
「あんまりです! もっと酷いです? だって、自分達の為に2人を犠牲にするなんて絶対に
許されない。そんなの……そんなの……」
 泣きながら私は……心のどこかでわかっていました。
 これはもう、私が泣いてもどうにもならない事なんだって。
「……これは言い訳でしかないけれど。私達の技術レベルでは長門さんの様な完全な時間凍結
はできないの。だから2人の時間はほんの少しづつだけど進んでいて、2人には何の変化も感
じられていないはずよ」
「じゃ、じゃあ。いつか2人はまた自由に?」
 静かに体を離した彼女は、私の顔を見て……首を横に振りました。
「今はまだ、貴女は何も考えなくていいの。近い未来、貴女はわたしがした様に、この部屋の
時間を止めに来ます」
「そんな事絶対にしません! 2人を閉じ込めるような……そんな事、絶対にしません!」
 泣きながら叫ぶ私を見て、彼女もまた泣いていました。
 彼女が何故泣いていたのか? その時の私には……わかりませんでした。
 
 
 静かな部屋の中、2人は身を寄せ合うように眠っていた。
 壊れてしまっても翌日になれば何故か元通りになっている家具も、いつまで経っても無くな
らない冷蔵庫の中身も気にならない。
 不自然な程変化の無い日常の中で、ただ求め合うだけの毎日。
 ――誰もキョンの心を奪わない。
 ――誰も私達を邪魔しない。
 ――そしてキョンは、あたしが居ないと生きていけない。
 そう、こんな時間が永遠に続けばいいのよ。
 
 
 現実とは異なるその世界で、少女の願いは叶ったのでした。
 
 
 これもまた、1つのハッピーエンド 〜終わり〜




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