White Illusion 赤く小さな唇から溢れる息は白く、真綿のような白さで空に昇る。白という色は闇という黒の中で浮かぶ淡い灯火のようだ。 灯火はやがて闇に融ける。 紗夜は戯れに冷たい空気を肺に溜め込み、もう二三度ばかり吐き出してみたが、やはり白い靄は彼女の頭を過ぎた辺りで跡形もなく消えてしまった。 紗夜は僅かに仰向けていた顔を戻し、視線を彷徨わせた。時刻は夕方を示しているのにも関わらず、外は暗色に包まれていた。 季節は冬、冬というのは一年中で最も太陽高度が低く、夜が長いのだそうだ。 紗夜は瞼を落とすと、街路に沿って植えられた木々の中にぱっと浮かんだ白を見つけた。 いつの間に雪が降ったのだろう、と目を凝らしてみると、すぐにそれが自分の思い違いであることに気が付いた。 暗闇の中に白い花が浮かんで咲いていた。 花は無言で咲いており、まるで眠りに沈んでいるといった感じだった。 陽に当たっていた時はあれ程見事に咲き誇っていたというのに、今や誰もそこに花があるなどと気付かない。 ただただ足早に通り過ぎて、足元に花があったことなど覚えてもいないだろう。 特に花の少ない冬のことだ、とても稀少なもののように思えて、しばらく足を止めて花を眺めていた。 冬に咲く花はどれも小振りで、花弁は少なく、慎ましやかだ。 この名も知らぬ眼下の花もこぢんまりとしていて可愛らしく、清らかで、何者も犯しがたい白さを持っていた。 まだ初雪も降っていないと分かっていながら、雪と見間違えたのは、こうした白さにあるのではないかと紗夜は思った。 「紗夜」 落ち着いた深みのある声が、穏やかに、彼女だけの愛を含んだ音で、彼女の名前を呼んだ。 俯けた顔を上げると、紗夜は黒々とした大きな眸を更に大きくさせた。 そこにいたのは、闇の中に沈んだ色をした、けれどどこか真白い花のように夜に浮かび上がる様が神秘的な青年だった。 「十夜兄さん!」 声は弾み、胸は高鳴り、彼女は十五の娘らしい仕草で十夜の下に駆け寄った。 「迎えに来てくれたのですか?」 熱い息が闇に散っていく。 「ああ。窓の外から紗夜の姿が見えてね」 紗夜は十夜の向かいに部屋の灯りを確認すると、唇の端を微かに釣り上げ、十夜の眸を覗き込んだ。 真黒な鏡に自分の姿を確認すると、恍惚とし、満足げな微笑を浮かべた。 十夜の眸に映ること、それは紗夜にとって、儀式であり、対話であり、愛の証でもあった。 「さあ、早く中に入ろう。外は寒い」 十夜は紗夜の腰に手を置き、二人の城であるマンションへと歩を進めた。 観音開きの戸を開放すると、中から暖かい空気が流れてきた。 先程まで冷たい空気に晒されていた肌はじんわりと痺れ、目が潤んだ。 暖炉の薪が爆ぜる音を耳にしながら、二人は木製の階段を上がった。 二階にある部屋はエントランスにいる時とは違い、ひやりとした空気が静かに覆っていた。 「灯りはつけないのかい?」 「ええ」 紗夜は言いながら、夜目のきかない剣呑な足取りで奥に進んだ。 光が届かない部屋は外よりも暗く、まるで何もかもが闇に呑まれた世界にいるようだった。 やがて、冷たさに手を触れると、夜の色を透かせた硝子に紗夜の姿が映り込んだ。 硝子の中の自分は表情さえも分からぬ程、暗く沈んでおり、僅かに見える輪郭のみが闇との境界線を引いていた。 紗夜は見ているうちに段々と遣り場のない憤りと締め付けられる胸の苦しみを覚え、顔を歪ませた。 「紗夜」 背後からの声に振り返ると、十夜が佇んでいた。彼だけは真黒な闇の中でしっかりとした線を持っていた。 「何かあったのかい?」 十夜は紗夜の様子にいつもと違う気配を察し、声を落として訊ねた。 兄さんはいつもそうだ、とそれまで紗夜の心を支配していた嫌悪は恋慕に似た情へと移り変わった。 兄さんはいつも優しい。何も言わなくても私のことを分かってくれる。今一番欲しい言葉を言ってくれる。 私を甘やかして、私を肯定して、私を望んでくれる。私を愛してくれる。愛しい人。最愛の人。 紗夜が黙っていると、十夜は深い愛の微笑を浮かべ、紗夜の頭を撫でた。 「紗夜。言葉は内に溜め込むものではなく、外に吐き出す為にあるんだ。息みたいにね」 十夜の言葉は潤滑油となり、紗夜の黒い眸の中にゆらりと水を流れさせた。すぐに留めようと下を向くが、伏し目を彩る濃い睫毛は僅かに震えていた。 「お父様、から伝言が……夜会に出席しろとのことです。馬鹿馬鹿しい」 切れ切れの言葉。 十夜はしばらく紗夜の頭を撫でた後、 「行くのかい?」 と、言った。 紗夜は項垂れたまま、小さく首を振った。 行きたくない。行けば、しばらく兄と離れ離れになってしまう。父を含む社交界の人間は十夜を嫌った。 彼女が一言でも彼の名を口にすれば、皆の表情は露骨に歪み、憐れみと侮蔑を含んだ眼でこちらを見つめた。 そんな人達の前にわざわざ顔を出したくはない。 自分が馬鹿にされるのは構わない、蔑まれるのも、嘲られるのも、当然のことだと受け入れよう。 けれど、十夜を否定する言葉は許せなかった。 「そうかい。俺も紗夜と離れるのは嫌だな」 刹那、俯いた彼女の顔の上に翳のある微笑が浮かんだ。まるで、この言葉が欲しかったとでもいうように。 そう、こんなのは茶番だ。初めから行くつもりなどなかった。 ただ、確認したかったのだ。十夜が、そして自分が、どれ程までに相手を求めて、必要としていて、離れがたい存在だと思っているのか、ただそれだけを。 紗夜はほんの僅か肩を揺らし、長い瞬きをし、顔を上げた。 厚い睫は涙に濡れ輝いていた。 「知っていますか? クリスマスは好きな人と一緒に過ごす為にあるのですよ」 「それは我が国の慣習だろう?」 それ以上は野暮だと言うように、紗夜は十夜の唇に人差し指を押し当てる。 濡れた唇からは湿った吐息が溢れ、その生暖かさを肌で感じると全身が粟立ち、熱が駆け上った。甘い痺れに自然と口の端に窪が出来る。 「十夜兄さん」 紗夜は他人には聞かせたことのない、聞かせようとも思わない、吐息混じりの甘い声を出し、わざとらしい緩慢な動きで首を傾けた。 すると、十夜は困ったように唇を曲げ、紗夜の腰に手をまわし、引き寄せ、前髪にキスをした。 「クリスマスプレゼントは何が良いかな?」 「兄さんが傍にいてくれるだけで、あとは他に何も望みません」 白く細い指先が肩から腕にと輪郭をなぞるように下りていく。 指を絡ませ、茨のように相手を絡め取る。相手を見据えたまま交わす言葉は、まるで誓いの言葉のようだった。 「本当に? 欲しい物くらいたくさんあるだろう。例えば、新しいドレスや靴や美しい宝石なんかも」 「着飾る物ばかりなのですね」 「折角女性として生まれたんだ。飾らなくてどうする。美しいドレスも靴も宝石も、全ては美しい女性の為にあるものだ。そして、紗夜。お前は誰よりもそれらを持つに相応しい」 十夜は紗夜の細い顎に手をかけ上向けた。 「紗夜。目を瞑って」 「何ですか、急に……」 「いいから」 言われた通りに瞼を閉じる。 僅かに見え始めていた世界の輪郭は完全なる黒に塗り変わった。 「想像してごらん。今日はお城の舞踏会の日。外は雪が降り、触れると、お姫様のドレスを黒から輝くような純白へと変えてしまうんだ」 「……まるで、童話のお姫様のようですね」 小さな頃に読み聞いた、幸せを掴むお姫様のお話。 「そうだよ、お姫様。お姫様は魔法にかけられて憧れの舞踏会に行くんだ」 「けれど、それでは十二時の鐘が鳴った途端に魔法が解けてしまうのでは?」 紗夜の疑問に十夜は笑いを含んだ声で答えた。 「この魔法は特別でね。紗夜が望む限り、十二時の鐘は鳴り響かない」 「都合が良いのですね」 「だが、悪いことじゃない」 二人は声を潜めて笑いあった。 目の前にいる人の息づかいを感じ、閉ざされた世界でも不安などなかった。 「想像してごらん。時計という時計は止まり、誰もお姫様の魔法を解くことは出来ない」 低く、甘く、愛のある声が物語を語る。 耳元で囁かれた言葉は魔法のように作用し、瞼の裏に光が浮かんだ。 紗夜は綴じ合わせた唇を薄く開き、続きを口にした。 「想像してみて下さい。ここは水晶のお城。闇の中、建物の輪郭が仄かに浮かび上がる様はとても美しく、心を奪います」 「想像してごらん。お城の大広間にお姫様が現れると、そのあまりの美しさに、辺りはしんと静まり返る」 「そして、目の前には世界で一番大好きな人が……」 紗夜はゆっくりと重い睫毛を上げた。 暗い部屋は水晶の柱と床で出来た美しい広間へと変貌し、自分は輝く純白のドレスを身に纏い、硝子の靴をはいていた。 紗夜は見た者全てを惹く美しい微笑を浮かべ、鏡を覗き込んだ。 黒い眸は常時彼女を捉え、また彼女も同じく彼を捉えるのだ。 この黒は自分のものだ、と。 「お姫様。私と踊って頂けませんか?」 「はい」 濡れた薔薇色の唇が紡ぎ出す幻想は美しい。 端から見れば、この一連の行動も馬鹿げた遊技に映るのだろうが、彼女はどこまでも本気だった。 「十夜兄さん、来年も二人一緒に過ごしましょうね」 「ああ、そうだな紗夜。お前が望むなら」 end