*ジムノペディ #1 * 『だって……かなしいときって、入り日がすきになるものだろ……』 『一日に四十三度も入り日をながめるなんて、あんたは、ずいぶんかなしかったんだね?』 * 「ただいま」 いつもの様にそう言って、パンプスを脱いで部屋に上がる。 いつもの癖。 もう誰も居ないと分かっていながら、いつまでも抜けない癖。 飼っている仔犬ももう眠っているのか駆け寄っては来ない。 分かっている。分かっては、いるつもり。 でも。 ほんの少し、期待してしまう。 もしかしたら奇跡が起こりはしないかと。 ここのところ、帰りはいつも深夜になってしまうから 蛍光灯を付けるのは気が引けるので 壁際に置いた照明を灯しに向かう。 温かみのある光が売りの、真ん丸の形をしたフロアランプを選んだ。 「月の様で幻想的」と、今はもう居ないあの子が言ったから。 サイズは大きいものと小さいものの二つがあったけれど、 大きいものをひとつだけ部屋に置いた。 あの時は充分だと思ったけれど、今はまるで私の様で 小さいものも隣に並べておけば良かったと、見る度に少しだけ後悔する。 スイッチのダイアルを軽く回すと、部屋に柔らかな橙色の光が満ちた。 インテリア照明の為か、光量はやはり不十分で 家具と私の影が白壁に色濃く落ちていた。 紅茶が欲しいな。 何となく温かいものが欲しくて、ソファーに腰を下ろす間もなくキッチンに向かう。 茶葉はあまり考えずに、いつものブレンドを選んだ。 以前ならそれだけでああでもないこうでもないと数十分は悩んでいただろうか。 ホーローのポットをコンロに掛けて暫く、蒸気を吐き出す軽快な音が鳴り出した。 いけない。カップを用意していなかった。 慌ててティーカップを、ソーサーに手をかけてから 自分一人で気取る必要もないと思い直してマグカップを取った。 カップを温めようとポットを手に取って、初めてその重さに気付く。 二人分の、重さ。 「嫌だわ、私ったらまた間違えちゃって」 頬に手を当ててうふふと笑ってみる。 自分でも笑い声に力がないのが分かった。 あれからもう暫く経つのに、今でもまだ受け入れられていない。 ひとりの部屋がこんなに寂しいものだなんて、知りもしなかった。 ポットの重みで胸が詰まる。 息が苦しい。視界が滲む。嗚咽が漏れる。 こんな風に、ふとしたきっかけで決壊する。 自分では、止められない。 「―っ」 目頭が熱くて、堪らなく熱くて、拭おうとして、 両手が塞がっている事に気がついて、 そのまま溢れて頬を伝って、カップに落ちた。 「一人じゃ、無理よ…!」 言葉にした途端に、後から後から溢れ出て 止める事も出来ないままに涙が零れた。 紅茶一つ満足に淹れられないのだから。 自分の涙さえ拭えないのだから。 やり場のない気持ちに整理を付ける事も、出来やしないのだから。 頼りないと笑われても仕方がない。 だって、あなたの居ない私は こんなにも不自由で不十分なのよ。 「―なら」 はっとした。 私のものではない声が、後ろから聴こえる。 それはとても懐かしい響き。 まだ耳に残る愛おしい声が、すぐ後ろにあった。 「私にも、一杯頂けますか」 信じられなかった。 そんな筈は。そんな筈、ないのに。 あなたがここに居る筈はないのに。 だけど聞き間違いじゃない。間違う筈もない。 こんなにも焦がれたあなたがここに居る。私のすぐ後ろに。 だけど余りにも懐かし過ぎて、愛おし過ぎて、 振り返ったら泡沫の夢の様に、消えてしまうのではないかと思って。 躊躇いながら、少しずつ、少しずつ、目を、首を、後ろに向けて。 薄く埃を被り始めたマグカップを差し出して、 あなたはそこに立っていた。 いつもの仏頂面を少し崩して、はにかんだ笑いを浮かべていた。 「お久しぶりです、…ただいま」 何も言葉にならなかった。 言いたい事は沢山あったけれど、口からは何も出て来なくて 代わりにまた涙が溢れて、ほろほろと流れ落ちた。 おろおろするあなたがそこに居る事を確かめたくて、 ポットもカップも放り出して、飛び出して、両腕できつく抱きしめた。 ちゃんと、ここに居る。 「苦しい、苦しいですってば」 腕の中でじたばたするあなたがこんなにも愛おしい。 「おかえり、おかえりなさい、千早ちゃん」 ---------------------------------------- *自動記述法 #1 船について それから私は今までどこに行っていたの、とか 何をしていたの、とか、ちゃんと食べていたの、とかさんざ質問攻めに遭って 漸く解放された頃には部屋が少しばかり白んでいた。 あずささんの横顔は記憶にあるそれよりは少し疲れていたけれども、 私が何か口を開く度に、落ちる影を吹き飛ばす様な底抜けの笑顔を浮かべた。 水を得た魚と言うのは、あまり適切ではないのかもしれないが 適当な語彙を今の私は持ち合わせていない。 「大丈夫なんですか、休まなくて」 時計の針に目を遣る素振りをして、時刻を確認する。 もう午前4時を回っていた。 心底驚いた顔をして、あずささんが口元に手を当てる。 「あらあら、もうこんな時間なのね」 全く、現役の芸能人だというのにこの緊張感の無さは。 根本の部分は以前と何も変わっていないらしい。 "彼女"が本当に仕方のない人、と溜息を吐くのも納得出来た。 もう少し、普段は気を使っているのだろうか。肌とか何とか。 少しは寝ておかないと〜、などと言いつつ 名残惜しそうにもそもそと支度をする。 私ももう暫く話をしていたかったが、 あずささんの立場と予定を考えればさすがにそういう訳にはいかない。 「私が戻ってきたから遅刻した」なんて言われでもしたら、私も困る。 私の存在は、公になってはいけない。 「じゃあ、一緒に寝ましょうか」 満面の笑顔で枕を引っ張り出しながらあずささんがそう言った。 少し動揺するが、以前の習慣だったので断る事も出来ず 私はその提案に甘んじた。 ラフなTシャツとスパッツに着替えてベッドに横になる。 全体的にスレンダーに出来ている私と、身長と胸以外は細身のあずささんでは セミダブルでも然程窮屈に感じない。 少しだけ遠慮がちに、隣にあずささんが潜り込む。 先程から目は細めたまま、本当に嬉しそうな顔を崩さないので 私も釣られて笑いが漏れる。 それを見てあずささんがまた笑う。 「千早ちゃん、ちょっとだけ柔らかくなったみたい」 内心、どきりとする、というのが正しいのだろうか。 この人は妙な所に鋭い。 そんなことは、と慌てて取り繕って、様子を窺う。 当の本人は、別段気に留めた風も無く 相変わらずニコニコしながら私の髪を弄って遊んでいる。 編んだり解いたり。いい気なものだ。 「さっさと寝てください!」 「…はーい」 叱り付けた瞬間だけはしゅんとした様な顔をしたが、 また優しげな笑みを浮かべて私を抱きしめた。 ちょうど頭を抱えられて、胸元に埋められる格好になるため 少々息苦しい。 耳の奥で、「くっ」と聴こえた気がした。 「千早ちゃん」 「はい」 「…もう、どこへも行かないでね」 約束は出来ません。 そう口にする準備をして、それはいけないと思い留まった。 代わりに、分かる程度に小さく頷く。 「…ありがとう」 それきり、朝まで安らかな寝息だけが耳に届いた。 ---------------------------------------- *"私"の三原則 第一条、私は彼女を傷付けてはならない。  また、彼女が傷付く事を何も手を下さずに黙視していてはならない。 第二条、私は彼女、及びプロデューサーの命令に従わなくてはならない。  ただし、第一条に反する命令はこの限りではない。 第三条 私は自らの存在を護らなくてはならない。  ただし、それは第一条、第二条に違反しない場合に限る。 ----------------------------------------